武道の義務教育化について

2011年08月22日
武道の義務教育化について、今の自分の考えを記しておきます。今後変わる可能性が
ありますが、とりあえず。
また、単純に思ったことや疑問なので決して自国や異文化の卑下ではありません。

自分も未熟ではありますが、護身を学んでいるので少し気になる疑問を。
なぜ今、武道なのか。目的は何なのか。いくつか自分が推測する目的を挙げてみます。

1.礼儀作法
2.精神修養
3.日本の伝統文化を親しむ
4.健康増進

とりあえず、このあたりですかね。まず『礼儀作法』。
これに関しては、そもそも武道で学ぶって時点で何かおかしいと思います。
本来は日常で家族や親族、隣人に学ぶものであり、特殊な作法は各分野の先生に学ぶものと
思います。相手に怪我をさせないよう思いやる気持ちは大切ですが、基本は普段の日常かと。
挨拶はともかく、靴をそろえる、箸の持ち方なんて教えてもらえませんよね。



次に『精神修養』。なかなか難題ですね。
辞書には『精神を鍛錬して、高い人格や強い意志が備わるように努力すること。』とあります。
個人的な考えでは、武道では、そもそも肉体と精神を分けて考えることが
間違っていると思います。哲学で分けて考えるのとは意味が違います。
単純に体力があってたくましい人は、自信があると思います。
病弱で体力が無い人に、自信があると思いますか?
もし、自信をつけることが一つの目的だとしたら、これは同時に高い技術を要求していること
になります。とりあえず、いじめられっこが自分自身に負けない自信を持てるくらいに
なるまでですかね。
ちなみに授業時間の一例ですが、中学第一学年の学習計画例では15時間だそうです。
15時間で自信をつけさせるのはかなり難題な気がします。



『日本の伝統文化を親しむ』については、突っ込みどころが満載で何から話していいのか
わかりません。よく文化を大切にとか言いますが、消したい過去も含め伝えていかなければ
本質は見えないと自分は思います。都合のいい部分だけを切り取って伝えるから
矛盾が生まれ、やたら美化したものしか出てきません。正直イラッとします。

日本の武道は近代において決定的な『断絶』を2回も経験してます。
一度目は明治維新、二度目は敗戦です。明治維新によって戦国時代以来の伝統的な
身体文化の大半は消滅しています。従来のナンバ歩きが廃れたころもこのあたりだと思います。
衣服や住居の作りが変わったのもこのあたりですし。
皮肉な話ですが、自ら日本文化壊してますよね、これ。

一度目の断絶の後、次の経緯で復活します。
西南戦争での抜刀隊の活躍は、明治維新による近代化・西洋化政策によって
廃れていた剣術や日本刀が見直されるきっかけとなっています。
抜刀隊の高度な身体能力・殺傷技術によって剣道が息を吹き返したわけです。

二度目の断絶の後に残っているものは、果たして『日本の伝統文化』なんでしょうか?
一例ですが、その疑問には『國井善弥』先生を調べると一つの事実がわかります。
この方はその圧倒的な実力から『今武蔵』(昭和の宮本武蔵という意味)という異名で
呼ばれており、武道界からは異端視されていたが、日本古武道の強さを体現した武人
だったそうです。詳細は次の動画をご覧ください。



武道に精通してない方のために、この方の凄い所をもう少し説明すると、
まず『相手の提示した条件で勝っている』ということです。
さらには制圧した相手が負けを認めたということです。
当時、占領下でごねようと思えばごねることが出来た立場なのにですよ。
その銃剣術の教官が瞬時に納得せざるを得ないほどの実力差があったと推測されます。

一つ訂正がありまして、この試合が実施された当時、GHQは武道が軍国主義の発達に
関連したと考え、武道教育禁止の措置を取っていたため、後年、この試合が武道教育禁止の
措置の解除のきっかけとなったという誤解が広まったようですが、この試合の結果と
武道教育禁止の措置の解除は関係がないようです。

少し脱線しますが、疑問が出てきました。『なぜ日本武道の名誉をかけた一戦に、
武道界からは異端視されていた人が選ばれた』のでしょうか?いくら強くても、
面子を保つなら異端視されていた人ではなく、いわゆる武道界の正統派の人が
戦うべきではないのでしょうか。

次に記すのは、あくまで自分が思う勝手な理由です。
もしこの時、『武道界の異端である國井善弥』先生が万が一負けても、そこらの一個人の
武術家が負けただけで武道界には関係ないから面目は立てられている、というようには
考えられないでしょうか?もしもこの仮説があっていたなら、組織としての人間のえげつなさを
垣間見ることが出来ます。ちなみに、この方は現在の剣道とは関係ないです。

まぁ、あくまで仮説ですが、そこまで知っても信念を持ってその武道を続ける人は本物だと
自分は思いますし、本当に尊敬します。真の意味で強いと思います。
組織のえげつなさと個人の資質は関係ないですからね。
また残らなかった技術も多いですが、今の技術が決して良くないという話ではありません。
素晴らしいものは多いです。

さて、武道の一つの例を書いてみましたが、まだ『伝統文化』と言い切れますか?
まぁ、伝統文化の定義しだいなので追求はしませんが。
ただし、個人的にスポーツ武道は『伝統文化』とは違うと思います。



長くなりましたが、最後の健康増進。
一番真っ当ではあります。…が怪我にまで対応できる先生がどれだけ見えるかが
心配ではあります。多少の怪我は仕方ないところがありますが、致命的なものは
なんとしてでも避けなければなりません。
柔道では過去27年間で110人が死亡しています。全部の例を検証してはいませんが
教える先生の質と、一人の先生が何人の生徒を教えるかでかなり結果は変わりそうです。
もちろん不慮の事故もありますが、品質保証の考え方からすれば、面子や言い訳は
どうあれ、まず原因を徹底的に排除するべきですね。
日本では柔道で死亡事故が起きても、誰も責任を取っていません。
残念なことに最近も6歳児の死亡事故があり、今回始めて指導者が起訴されました。
いろんな意味でかなり根が深そうです。

※毎日新聞 2011年8月19日 地方版 大阪の柔道練習死亡:教室指導者、
起訴内容認める--初公判 /大阪

どんなものでもそうですが、正しく学べば怪我はしづらいものです。
ちなみに柔道人口世界一のフランスでは死亡事故は皆無だそうです。
健康維持、増進が目的なのに健康を害したら元も子もないですよね。



新しい『中学校学習指導要領解説・保健体育編』の【第1 学年及び第2 学年】の武道の
内容として『勝敗を競いあう楽しさや喜びを味わうことのできる運動』、『自由練習や簡単な
試合で攻防を展開できるようにすること』と定義にあります。
この文面から、競技・試合が出来ることを前提としていることは明らかです。
中学校学習指導要領解説では柔道、剣道、相撲をメインとしてありますが、場合によっては
薙刀、合気道なども入るようです。…合気道に試合は無かったはずなんですが。
本当に伝統文化や武道のことわかって言ってるんですかね。
競争の本質を見失っている気がします。競うことと勝ち負けは別なのですが…。
新たないじめが出ないよう祈っておきます。


誤解の無いよう言いますが、この話はただでさえ各文化を継ぐ方が少なくなるのを助長する
意味ではなく、物事の本質に辿り着くにはそれぞれのルーツを知っておかなければならない
のではないか、という単純な疑問です。伝統文化にせよ武道にせよ、それぞれを真っ当に
勉強せずに語るのは論外ですし、各分野の先生に失礼だと思います。
そもそも思想や技術体系がまったく違うものを一纏めに教えようってこと自体に無理があると
思いますが…。

きっかけを作るぐらいの気持ちならまあいいでしょう。
ただ、もしも教える側が『武道は護身にも使えるぞ』だなんて甘い考えならば、やるべきではないです。

最後に、私個人は武道の義務教育化自体に絶対反対という訳ではありません。
楽しさも知っていますし、出来ないことが出来るようになる喜びもあります。
ただし、現段階では反対です。単純に前準備が整っていないことと、真の意味での伝統文化が
何も入って無さそうだからです。そして技術においては中途半端が一番危ないと思います。

いろいろ調べると、学校の先生もかなり大変そうでした。講習にて形だけの黒帯とって
受身もまともに出来ないのに教える側に立たなければならない。
柔道創始者の嘉納治五郎が生きてたらどう思うんでしょうね。

…さーて、いったい誰が得するんだろう。この武道の必修化って。

わかりにくい長文、失礼しました。


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Posted by 妖怪スクナカボチャ at 01:21│Comments(0)考学
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